2015年11月27日

そんなことあるかい句

「そんなことあるはずがない」といいたくなる季語が二つある。
春の季語の「亀鳴く」と秋の季語の「蚯蚓(みみず)鳴く」だ。
筆者もこれらの季語は気にも留めなかったが、
心の片隅にはあった。

それがある春の日の午後、
こんな日和の日は四天王寺の亀が鳴いているのではないかと思って、
自然に一句出来た。

この昼は四天王寺の亀鳴けり   毎日俳壇2席

大阪勤務のころアパートから隣の四天王寺がよく見えた。
池には亀がいっぱいいて長閑な風景を醸していた。
この一句で俳人には、
一般人の聞こえぬ亀の鳴く声が聞こえるのだと思ったものだ。

実際には亀が鳴くことはなく、
情緒的な季語である。
藤原為家の
「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」の歌が発端で、
古くから季語として定着している。


桂信子が

亀鳴くを聞きたくて長生きをせり

と詠んでいるが、
聞こえた筆者は早熟だろうか?

蚯蚓鳴くもそうだ。
秋の夜、道ばたの土中からジーと鳴く声が聞こえてくることがある。

実はケラの鳴く声であるが、
昔の人はそれを蚯蚓が鳴いているものと信じていた。
そして蚯蚓には発音器がないので鳴かないが、
蚯蚓が鳴くと感じる感性が、
だんだん俳人の心に育つのだ。
そして秋の夜のしみじみとした情緒にであうと、
「蚯蚓鳴く」で一句を詠みたくなってしまうのだ。

蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ    川端茅舎

平家の六波羅探題のあとに出来たのが六波羅蜜寺である。
その「真の闇」を語るのに茅舎は蚯蚓の鳴き声を“増幅”させた。
闇の深さが一層伝わってくる。
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2015年11月26日

安易に作らない

俳句は常に丁寧に作る必要がある。
時間をかけて作った俳句か、
句会に間に合わせのために作った俳句かはすぐに分かる。
言葉使いが安易であるからだ。

牡蠣フライ味わいのよき夕餉かな

牡蠣フライがうまいなどとは誰でも言える。
ここから一歩踏み出さなければ俳句にならない。

牡蠣フライこんがり揚がる夕餉かな

こんがり揚がっているのを見れば味まで分かるのだ。

晩冬の何かを焼ける煙かな

遠くの煙だから何を焼いているか分からないから、
「何かを焼ける」と表現したのだろう。
しかしこれは正直すぎる。

晩冬の落ち葉を焼ける煙かな

見ていなくても落葉と置き換えればよいのだ。
そこまで詮索する人もいない。
晩冬と落葉と季重なりだが、
この場合は主たるテーマの晩冬を落葉が補っているパターンだから問題ない。

縁日の焼き烏賊(いか)食べて春惜しむ

「食べて」が言わずもがなの言葉だ。
動詞は二つあってもいいが、
この句の場合は動詞がバッティングして目線を股裂き状態にする。

縁日の烏賊焼く匂い春惜しむ    東京俳壇入選

が正解。
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2015年11月25日

季語はつけたりでは駄目

例えば

縄跳びのひらりと着地今朝の冬

という俳句があったとしよう。
新聞選者は100%採らないだろう。
なぜなら季語が動くからだ。
季語が動くということはどういうことかと言えば、
今朝の冬でなくても、
今朝の夏でもいいからだ。

今朝の冬に必然性がないのだ。
季語などどうでもいい俳句であるからだ。
 
俳句の場合はこう考えた方がいい。
すべては「季語様」のためにあるのだと。
例えば

山茶花の白の浮き出る薄暮かな   毎日俳壇入選

山茶花という冬の季語のために
中七も下五も下部(しもべ)となって働いているのだ。
白の浮き出ると形容し、
薄暮という白い花の一番美しい環境を演出している。

このように俳句は季語そのものを活かすために作るくらいに考えた方がよい。

スリッパに妻の体温日脚伸ぶ   毎日俳壇入選

掲句も冬至を過ぎればだんだん日脚が伸びることを、
スリッパに残った妻の体温で言い表している。
季語あっての俳句なのだ。 
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2015年11月20日

俳句と感性

秋の空露をためたる青さかな   子規

俳句は短詩である。
したがって何よりも感性が求められる。
表面には出なくてもその句の根底にある感性である。
子規の掲句は秋の空が露をためているかのように、
詩人子規の目に映ったのだ。
そう映らなければ出来ない俳句である。
つまり子規の感性そのものが現れた俳句なのである。

寺山修司が

マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
 
と詠んだが、
これも感性の固まりのような短歌である。
読者を霧の深い海でマッチを擦るという感性の世界にひきづりこんでおいて、
身を捨てるほどの祖国があるのかと問いかける。
マイクでがなり立てる反戦論者より、百倍の訴求力がある。

爽やかや四角のビルより退職す   東京俳壇1席

評には「四角のビルという平凡な言葉が抜群に生かされて
作者の生涯が見渡せる」とあった。
職場を「四角のビル」と称する感性を感じてもらえたのであろう。
こうした俳人の感性は持ち前のものだろうか、
それとも育てられるものであろうか。
筆者は両方あると思う。
生まれながらに詩的感性を持つ人間はそれほど多くはない。
しかし俳句は作句の技術とは別に多作すれば感性も自ずと育つものなのである。
素地としては歌謡曲に感動する感性があれば十分だ。
後は育つ。

春寒の夜に空襲のありしかな   日経俳談1席
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2015年11月19日

炬燵(こたつ)のドラマ

淋しさも茶柱と呑む炬燵かな   東京俳壇入選

長い人生の内には炬燵はドラマ展開の場ともなる。
部屋の中に炉を切り、
その上に木製の櫓(やぐら)を掛けたのが切炬燵。
床に深く掘り下げて腰掛けられるようにしたものが掘炬燵。
持ち運びできるものは置炬燵でいずれも燃料は炭か練炭だった。
そして電気炬燵へと変わる。
炬燵はもちろん切炬燵、置炬燵、掘炬燵などみな冬の季語だ。
年配の人はすべてを経験しているかも知れない。
従って昔の炬燵を詠めば自ずと時代が分かる。

芭蕉の時代にも置炬燵はあった。

住みつかぬ旅のこゝろや置火燵

と詠んでいる。

キシリトールが歯の健康によいことは広く知られるようになった。
筆者はキシリトールガムが好きだから原稿を書きながらかんでいるが、
おかげで30本全く虫歯がない。
歯医者から表彰されたほどだ。

炬燵猫キシリトールの口を嗅ぐ   産経俳壇入選

猫は珍しい匂いを確かめようとする。

裏情報知り尽くしたる炬燵猫   杉の子

古い猫は寝たふりしてその屋の家族の話を皆聞いている。
一番の情報通に違いない。
だから時々猫めは追い払われる。

茶を出しぬ炬燵の猫を押落し 金子伊昔紅

といった具合だ。医者で俳人の金子伊昔紅(いせきこう)は、
当代随一の俳人・金子兜太の父。
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