2017年04月19日

知らぬ間に楚楚(そそ)と咲く

臘梅(ろうばい)は知らぬ間に咲くならひかな    毎日俳壇入選

早春、我が家の庭に咲く花は臘梅。
だそして暫くたつとまんさくの花へと続く。
この臘梅のおかしいのはいつももう咲いている頃かと思って、
見に行って初めて咲いたと分かることだ。
桜のように待たれることもなく、
独りで楚楚と咲くのだ。
それだけ目につかない花なのだろう。
春先になにも彩りがない庭で咲く花は貴重だ。
それも臘梅は黄色で名前の通り、
ろうのように透きとおっていて宝石のようにきらめく。
 
春先に咲く花が黄色いのはなぜだろうか。
これは虫が花粉を運んで受粉させる虫媒のシステムに原因があるようだ。
早春にいち早く活動を始める昆虫にはアブやハエの仲間が多いのだが、
これらの虫は黄色い色に敏感だといわれている。
そういえば、まんさくがかすかながら魚の腐ったような臭いがするのも、
ハエを引きつけるためなのだろう。

臘梅に薄日のありて無口なる   杉の子
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2017年04月18日

人間の疎外

人間が作ったものが人間から離れ、
逆に人間を支配するような疎遠な力として現れることや、
人間があるべき自己の本質を失う状態を人間の疎外と言う。
戦後に一時流行った思想だ。
年配の人は学生時代にマルクス主義とからめて
新宿の喫茶店あたりで議論したケースも多いだろう。
 
疎外と言うほど大げさではないが、
現代社会にも通ずる要素があり、
これも俳句のネタになる。
例えば

外套を着れば巷の人の顔    日経俳壇入選

外套を着て外に出れば、
人間らしさを喪失する外の世界の厳しさがある。
ちなみに作句に当たっては古い用語が一句を引き立てる。
外套だから俳句になるのであってコートでは様にならない。

マスクして表情消して街の人   杉の子
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2017年04月13日

俳句と諧謔味(かいぎゃくみ)

簡単に言えば重いテーマを軽く語るというのが
芭蕉の言う「軽(かろ)み」であろう。

例えば

秋深き隣は何をする人ぞ

秋が深まり、山野が寂しい風情になってくると、
隣の物音も気になる。
今何しているのだろうかと人恋しい気持ちにもなる。

筆者は芭蕉が隣人の職業を気にしているというよりも、
親しい隣人が何をしているのだろうかと
気遣っているように句意を読み取りたい。
平明な用語で全く気取っていない。
「俳諧は3尺(さんせき)の童にさせよ」と芭蕉は述べているが、
まさにその言葉を地で行っている。

この「軽み」をさらに推し進めると「諧謔味」になることが多い。

一茶は

春雨や食はれ残りの鴨(かも)が鳴く

と詠んだ。
今は鴨が池にあふれているが、
昔は見つければ捕って食べていたと考えられる。
運良く食べられなかった鴨が春雨の中で鳴いている風景を詠んだが、
みそは「食われ残り」。
なかなか言える言葉ではない。

筆者もユーモアのある句は好きだ。
玄関開けて「受かったよ」と大声を上げた子供がずっこけた。

合格子(ごうかくし)上がり框(かまち)でずつこける   杉の子

雑草の中で高さ20〜30センチくらいのスカンポが
ニョキニョキと立ち上がっているのが面白いと感じて

すかんぽのぽつぽつぽつの余生かな   杉の子
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2017年04月12日

俳談

吉井勇作詞・中山晋平作曲の
《 ゴンドラの唄 》は森繁久弥が哀調があっていい。
しかし黒沢明監督の映画「生きる」のなかで、
末期がんの市役所の課長・志村喬が
公園でブランコに乗って歌った姿も印象的だった。

いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを


今は胃がんくらいでは早期発見すれば滅多に死なないが、
戦争直後までは死に至る病だった。
だから往年の名画のなかで
「明日の月日はないものを」が利いてくる。
今公園に行くと老夫婦の散歩ばかりが目立つ。
皆仲睦まじい感じだ。
朝の散歩だから“訳あり”の散歩はまずない。

冬麗の二人ここには誰も来ぬ   産経俳壇入選

という感じの散歩を1度はしてみたいものだ。
しかし怖くて出来ない。 
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2017年04月09日

黄昏レンズ

三夕(さんせき)の歌とは『新古今和歌集』に並ぶ
「秋の夕暮れ」を詠んだ三首の和歌をいう。
日本人なら「三夕」と聞いただけで、
そこはかとなき哀愁を感ずる名歌だ。

寂蓮(じやくれん)の

寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ

西行の

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ

藤原定家の

見渡せば花も紅葉(もみぢ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ

の三首。
『新古今和歌集』の代表的な名歌である。
今年も夕方の俳句に挑戦しようと思う。

鳧(けり)の子のけりつと鳴ける日暮れかな   東京俳壇入選

既に画壇には三夕どころか、
「無数の夕刻」を表現した版画家がいた。
川P巴水(はすい)だ。
別名「黄昏(たそがれ)巴水」と呼ばれたほど、
郷愁の日本の夕刻を表現し続けた。
これを筆者は写真で成し遂げようと、
「黄昏レンズ」を入手した。
ニコン58mm F1.4だ。
フラッシュなど不要の「黄昏専門レンズ」と名付けている。
これで黄昏の東京を撮って歩くつもりだ。
俳句も黄昏、写真も黄昏。
人生の黄昏時にふさわしいテーマの追求だ。

日の落ちてとっぷり暮れて十三夜   産経俳壇入選

写真は破水の版画と写真とのコラボ。
破水の版画にも傘を差している人が見られる。
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