2017年03月07日

俳句と諧謔味(かいぎゃくみ)

簡単に言えば重いテーマを軽く語るというのが
芭蕉の言う「軽(かろ)み」であろう。
例えば

秋深き隣は何をする人ぞ

秋が深まり、山野が寂しい風情になってくると、
隣の物音も気になる。
今何しているのだろうかと人恋しい気持ちにもなる。
筆者は芭蕉が隣人の職業を気にしているというよりも、
親しい隣人が何をしているのだろうかと
気遣っているように句意を読み取りたい。

平明な用語で全く気取っていない。
「俳諧は3尺(さんせき)の童にさせよ」と芭蕉は述べているが、
まさにその言葉を地で行っている。

この「軽み」をさらに推し進めると「諧謔味」になることが多い。
一茶は

春雨や食はれ残りの鴨(かも)が鳴く

と詠んだ。
今は鴨が池にあふれているが、
昔は見つければ捕って食べていたと考えられる。
運良く食べられなかった鴨が
春雨の中で鳴いている風景を詠んだが、
みそは「食われ残り」。
なかなか言える言葉ではない。

筆者もユーモアのある句は好きだ。
玄関開けて「受かったよ」と大声を上げた子供がずっこけた。

合格子(ごうかくし)上がり框(かまち)でずつこける   杉の子

雑草の中で高さ20〜30センチくらいのスカンポが
ニョキニョキと立ち上がっているのが面白いと感じて

すかんぽのぽつぽつぽつの余生かな 杉の子
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2017年03月02日

常識を外す

俳句を作る者が皆陥りやすいのは常識的用語の選択だ。
雲と書けば雨、川といえば魚の類いの連想である。
だから初心者は皆同じような俳句を作ってしまう。
一番初めに思いつく言葉はまず類型的で話にならない。
何か“事件”を起こさないと駄目なのだ。

坪内捻転は「常識外れ」の名手だ。
甘納豆と季節を組み合せて

三月の甘納豆のうふふふふ

などという不思議な俳句の世界を独創している。
本人は河馬が大好きだ。
だから

桜散るあなたも河馬になりなさい

といった句が出来る。
類想句から離脱しようとするとこのような世界になるが、
実に面白い。

黛まどかは

さくらさくらもらふとすればのどぼとけ

だそうだ。
男ののど仏に憧れる句だ。
他人と異なる俳句を作らなければ創作の世界とはならない。
しかし、まかり間違うと支離滅裂の駄句になってしまう。
初心の内は王道を歩き、
馴れてきたら飛躍する句を作るのがよい。

ぬぬぬぬと写楽顔出るべつたら市   日経俳壇入選

飛躍して意外性を狙った。
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2017年03月01日

言い過ぎない

芭蕉の弟子服部土芳(はっとりとほう)が、
芭蕉の教えを発言集の形でまとめた本に三冊子(さんぞうし)がある。
「白冊子」「赤冊子」「忘れ水(黒冊子)」の3部からなり、
蕉風俳句を忠実かつ体系的に伝えようとしている。

この中で芭蕉は言いすぎないことの重要性を説いている。
<下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら>という句について
言い過ぎだといっている。
句意は、「風にゆれる枝の下に臥して
摑みわけたいくらいの糸桜である」と言ったものだ。

これについて去来が
「糸桜が華やかに咲き誇ったさまを言い尽くしたものですねぇ」と
水を向けると芭蕉は、
「言ひおほせて何かある」と答えたのだ。
「俳句の世界ではものごと言い尽くしてしまえば、
後に何が残ろうか」と諭したのだ。
まさに作句の急所をついた発言として未だに語り継がれている言葉だ。
 
翻って初心者の句を見ると言い過ぎ句、
山盛り句が一杯である。
俳句は短い中でいかに余韻をもたらすかが最大のポイントである。
明白すぎる説明はせず、余韻を残すのだ。

打水の最初の客となりにけり    読売俳壇入選

掲句は料亭の前に打水がしてある情景を詠んで、
すがすがしさを狙った。
打水といえばいまは料亭くらいのものであり、
「料亭の打水」と言ってはぶちこわしとなる。

日本の文学は明白すぎる説明はせず、
行間を読むことが読み手に求められてきた。
作者はいかに省略するかに腐心する。
とりわけ俳句は省略の文学である。
『蕉門俳諧語録』でも、
芭蕉は「句は七八分にいひつめてはけやけし(くどい)。
五六分の句はいつまでも聞きあかず」と述べている。
いかに五六分の句を作るかに腐心しなければなるまい。
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2017年02月28日

鍋の句の最高峰

冬は何といっても鍋だ。
筆者の出身の三河地方には煮味噌という鍋がある。
鰹節だしをとって、
八丁味噌で貝や肉類、野菜を煮込んで食べるが、
これが鍋の王者だろう。
昔からあり、三河武士の活力源であった。
司馬遼太郎によると信長、秀吉、家康もその軍団もみな
八丁味噌で天下を取った。
煮込むほどうまくなるから通は最後に食べる。

鮟鱇鍋も寒波の襲来と共にうまくなる。

みちのくの言葉短し鮟鱇鍋   毎日俳壇入選

東北人は多くを語らない。語らなくても暖かい。
高価さにおいてはふぐちりとスッポン鍋だ。
一連のコースの最後に出てくるから、
勘定書きを見ると目の玉が飛び出る。

ふぐちりや東京タワーを遠望す    東京俳壇2席

それでも時には食べることはある。
鍋の句は人生を絡めると深みが出る。

寄せ鍋の湯気に歳月浮かびけり    杉の子

しんみりとした感じを出した。

そして鍋の句は久保田万太郎だ。
浅草駒形どじょうの久保田万太郎の碑は
「御輿まつまのどぜう汁すすりけり」。
雷門生まれの江戸っ子の粋が滲み出ている。
しかし何といっても最高峰は

湯豆腐やいのちの果てのうすあかり

だろう。
急逝する五週間前に、忘年句会で詠んだ。
妻にも子にも先立たれ、
孤独な晩年を過ごした万太郎の人生の寂寥感が漂っている。
読者は年を重ねるにつれてこの句の深い味わいが増してくるのだ。
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2017年02月23日

動物の描写

一茶には動物を詠んだ句が多く、
猫だけで330句余りも詠んでいる。
蛙、雀、蚤、虱に至るまで、
詠んだ句は膨大な数に及ぶ。

母に三歳で死に別れて、
自分は子供を亡くすなど家族に恵まれない人生を送った。
一茶はその欠落を埋めるかのように小動物を愛した。

吾と来て遊べや親のない雀

は寂しかった幼少期回顧の句でもあった。

痩蛙負けるな一茶是に有り

は、弱者に対する優しい眼差しが感じられる。

筆者も動物の句はよく作る。
新聞俳壇の成績もいい。

秋の日に考へているゴリラかな    産経俳壇入選

動物園でゴリラの思慮深そうな姿を描写した。

羽抜鳥人見るたびに一驚す   東京俳壇入選

本当に良く驚くのがニワトリだ。
一歩歩く度に驚いている。

千の蟻一匹頭痛の蟻がいる   東京俳壇入選

ふとそう感じたのだ。 

雨蛙目玉回して飛びにけり   毎日俳壇入選

雨蛙は本当に目玉をくるくる回す。
題材を動物に求めれば、
周囲に山ほど転がっている。
活用することだ。

嫁が君天井裏の自由かな    東京俳壇入選

嫁が君は鼠の別称で新年の季語。
鼠は大黒様の使いで正月に
米や餅を供えるなどの風習があった。 
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