2017年02月22日

忌日の句

著名人やとりわけ俳人、歌人などの忌日に、
その故人を偲ぶ俳句を忌日の句という。
西行忌、芭蕉忌、一茶忌、子規忌、漱石忌などが有名だ。
忌日を詠むこつは何気ない日常を詠むことである。
故人にゆかりの強いことを詠むと、
即(つ)きすぎとなりやすい。
せいぜい故人とは“かする”ていどの関係が良い。

浅酌をして大石忌過ごしけり   日経俳壇2席

大石内蔵助の切腹した2月4日を詠んだ。
大石と全く関係のない私事を詠んでいるが、
かすかに「酌」が“かする”程度である。
大石は幕府の目をごまかすために
京都で茶屋遊びにうつつを抜かしたといわれるが、
掲句を深読みすれば茶屋での「酌」がイメージが醸し出されるのだ。
触れてもこれくらいにすませると嫌みにならない。

同様に陰暦11月19日の一茶忌は

雪降れば馬の目濡らす一茶の忌   毎日俳壇入選

と詠んだ。
当たり前の自然現象であるが、
一茶に「馬」の俳句が多いことから、
これもさりげなく「馬」を入れた。

鴎外の墓にも花を桜桃忌  毎日俳壇入選

太宰治の6月19日の忌である桜桃忌を詠んだが、
太宰の墓の前には森鴎外の墓もある。
森鴎外を尊敬してやまなかった太宰治は、
生前三鷹の禅林寺にある鴎外の墓について、
「ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。
私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓所の片隅に埋められたら、
死後の救いがあるかもしれない」と書いている。

その意を汲んで、
美智子夫人が太宰をこの寺の鴎外の墓の側に葬ったものだ。
太平洋戦争の敗戦を記念した忌日もある。
沖縄忌と原爆忌だ。

捻子まけば動くヒコーキ沖縄忌    毎日俳壇入選

6月23日。
太平洋戦争の終わりの頃、
沖縄は日米の最後の決戦地になり、
多くの民間人が犠牲になった。
沖縄の日本軍が壊滅したこの日を、沖縄忌という。
原爆忌は広島、長崎に原爆が落ちた忌日だ。

真夜中の北斗のひかり原爆忌   杉の子
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| Comment(0) | 俳壇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

幻想の句

山姥の出刃となりたる二日月   東京俳壇入選

時には夢幻の世界を逍遙するもよい。
心を俗世間の外に遊ばせるのだ。
現実にはあり得ない世界に読者を感性を持って誘うのである。

掲句は二日月を見て山姥の世界に遊んだものだ。
幻想の句で大切なのは勝手な幻想を並べないことだ。
読者の共感を呼ぶ範囲内で幻想の世界に導かなければならない。

春昼の折り鶴崩れ初めたる   産経俳壇入選

棚に飾った折り鶴が突然崩れ始めたような感覚に陥った。
現実には折り目正しく折られたままであり、
崩れてはいないが、
異次元の世界をふと感じたのだ。

十六夜の天空からの高笑ひ   東京俳壇特選

十六夜の月を見ていたら、
こんな時鬼が高笑いをしそうだと思ったのである。
それをそのまま高笑いしたことにして一句に仕立てた。

幻想句で有名なものは

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉    三橋鷹女

だろう。
作者は燃え上がるような紅葉に囲まれ、
夕焼けにでもなったなら木に登って鬼女の如く振る舞ったら
どんなに精神が解放されるだろうと思ったに違いない。

願望と幻想が入り混ざった名句である。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| Comment(0) | 俳壇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月17日

そんなことあるかい句

「そんなことあるはずがない」といいたくなる季語が二つある。
春の季語の「亀鳴く」と秋の季語の「蚯蚓(みみず)鳴く」だ。
筆者もこれらの季語は気にも留めなかったが、
心の片隅にはあった。
それがある春の日の午後、
こんな日和の日は四天王寺の亀が鳴いているのではないかと思って、
自然に一句出来た。

この昼は四天王寺の亀鳴けり   毎日俳壇2席

大阪勤務のころアパートから隣の四天王寺がよく見えた。
池には亀がいっぱいいて長閑な風景を醸していた。
この一句で俳人には、
一般人の聞こえぬ亀の鳴く声が聞こえるのだと思ったものだ。
実際には亀が鳴くことはなく、
情緒的な季語である。

藤原為家の
「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」の歌が発端で、
古くから季語として定着している。

桂信子が

亀鳴くを聞きたくて長生きをせり

と詠んでいるが、
聞こえた筆者は早熟だろうか?

蚯蚓鳴くもそうだ。
秋の夜、道ばたの土中からジーと鳴く声が聞こえてくることがある。
実はケラの鳴く声であるが、
昔の人はそれを蚯蚓が鳴いているものと信じていた。
そして蚯蚓には発音器がないので鳴かないが、
蚯蚓が鳴くと感じる感性が、
だんだん俳人の心に育つのだ。
そして秋の夜のしみじみとした情緒にであうと、
「蚯蚓鳴く」で一句を詠みたくなってしまうのだ。

蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ   川端茅舎

平家の六波羅探題のあとに出来たのが六波羅蜜寺である。
その「真の闇」を語るのに茅舎は蚯蚓の鳴き声を“増幅”させた。
闇の深さが一層伝わってくる。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| Comment(0) | 俳壇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月16日

安易に作らない

俳句は常に丁寧に作る必要がある。
時間をかけて作った俳句か、
句会に間に合わせのために作った俳句かはすぐに分かる。
言葉使いが安易であるからだ。

牡蠣フライ味わいのよき夕餉かな

牡蠣フライがうまいなどとは誰でも言える。
ここから一歩踏み出さなければ俳句にならない。

牡蠣フライこんがり揚がる夕餉かな

こんがり揚がっているのを見れば味まで分かるのだ。

晩冬の何かを焼ける煙かな

遠くの煙だから何を焼いているか分からないから、
「何かを焼ける」と表現したのだろう。
しかしこれは正直すぎる。

晩冬の落ち葉を焼ける煙かな

見ていなくても落葉と置き換えればよいのだ。
そこまで詮索する人もいない。
晩冬と落葉と季重なりだが、
この場合は主たるテーマの晩冬を落葉が補っているパターンだから問題ない。

縁日の焼き烏賊(いか)食べて春惜しむ

「食べて」が言わずもがなの言葉だ。
動詞は二つあってもいいが、
この句の場合は動詞がバッティングして目線を股裂き状態にする。

縁日の烏賊焼く匂い春惜しむ  東京俳壇入選

が正解。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| Comment(0) | 俳壇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

季語はつけたりでは駄目

例えば

縄跳びのひらりと着地今朝の冬


という俳句があったとしよう。
新聞選者は100%採らないだろう。
なぜなら季語が動くからだ。
季語が動くということはどういうことかと言えば、
今朝の冬でなくても、
今朝の夏でもいいからだ。
今朝の冬に必然性がないのだ。
季語などどうでもいい俳句であるからだ。
 
俳句の場合はこう考えた方がいい。
すべては「季語様」のためにあるのだと。例えば

山茶花の白の浮き出る薄暮かな   毎日俳壇入選

山茶花という冬の季語のために
中七も下五も下部(しもべ)となって働いているのだ。
白の浮き出ると形容し、
薄暮という白花の一番美しい環境を演出している。

このように俳句は季語そのものを活かすために作るくらいに考えた方がよい。

スリッパに妻の体温日脚伸ぶ   毎日俳壇入選

掲句も冬至を過ぎればだんだん日脚が伸びることを、
スリッパに残った妻の体温で言い表している。
季語あっての俳句なのだ。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| Comment(0) | 俳壇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする